いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか を読む

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

を読み終わった。
最近Amazonで注文する環境が整ったというか覚えたというか、なので近くの本屋や図書館にない本も読めるようになった。 いやー、マーケットプレイスは安く手に入ってサイコーだね。あんまり中古本購入をひけらかすのは良くないと思いつつお金がないので一円でも惜しいからゆるしてつかーさい。

さて、本書はイリイチの脱学校の社会が脱学校論者の聖典であるがそれに準じると言っていい。「脱学校の社会」は学校が学習を独占することへの非効率さや不平等さがメインといった感じでクラスの中に同学年の生徒を閉じ込める息苦しさなんかは軽く触れられる程度だった。いじめの構造では市民社会が停止された教室で何が起こるか詳細に分析されている。法の届かない空間で独自の秩序が蔓延し人が死のうが関係なく場のノリに全て従う恐ろしい状態だ。学校は先生や友だちをむりやり親密にさせる感情奴隷であり性奴隷のようだとかなり辛辣に批判している。
あと、タフの論理が面白い。いじめに耐えた自分を正当化してタフになれない奴を「権利」としていじめるという不幸の再生産が起こるという。
6章の新たな教育制度はイリイチのラーニング・ウェッブを現実的に実現させる制度に感じた。

読んでて思ったのはちょっと自分には未知の領域かもしれないということだ。もちろん自分が小学校まででリタイアしたからより学校空間が過酷になる中学を体験できてないのもある。自分がいじめを受けてないといえば嘘になるかもしれないが、法律で裁くような暴力はないし、かばう人がいたことから完全に秩序が形成はされていなかっただろう。もちろんあのどうしようもない重苦しい雰囲気は今でもトラウマだ。しかし、自分は潔癖なところがあって最後まで心を売ってなかったと思う。まあ、それ以前のコミュニケーション不全で場に心を明け渡すことができなかったというのもあるかもしれない。

これから脱学校のなんらかの行動は起こしたいのだが学校の困難さの主流な悩みが共有できないとなると自分じゃあやっぱり無理かなあなんておもう。